| T 創部時代 | ||||||
| 1949年(昭和24年)8月1日、開学と同時に創られた伝統ある部である。創部当時の部員は、すべて旧制第六高等学校からの入学者。顧問は、猪野俊平教授。発起人は、竹林英二(法文)−主将・村上安之(理・医学)−副主将であり、藤井学(法文)−幹事、岡田和夫(理・医学)がいた。 初年度の部活動は、六高(三年生のみ在学)山岳部の小林勝氏の指導のもとに実施された。 1949年(昭和24年)
1950年(昭和25年)
同年3月、1924年(大正13年)創部の六高山岳部は母校とともに終止符を打った。岡大山岳部は、その装備(テント2、スキー2、ザイル2、その他)譲り受け、1年間は、山行を共にし、指導を受けて第一歩を踏み出した。 U 大山に学び、鍛える 1950年(昭和25年)から六高山岳部の指導を離れ、独自の山行を模索する事となった。大山については、お世話になり指導を受けたのは玉野高校山岳部顧問をしておられた光畑正夫氏であった。大山の夏山のすべてを特に沢登りを指導していただいた。こうしてつぎのステップを目指した時、創部以来、部を背負ってきた大先輩村上安之氏を大山二の沢上部で失った。1954年(昭和29年)8月22日。 大山の冬山も独自で挑んだ。1951年(昭和26年)冬、当時南光河原にあった米子中学のヒュッテを借りての合宿中、初めて上宝珠尾根を登って以来、着々と大山の岩壁に足跡を残した。 夏山の日本アルプス縦走は、創部2年目より実地していたが、4年目にあたる1952年夏は剣岳に10日間の合宿を行い、チンネ・八つ峰等を攻撃するまでになった。 大山から日本アルプスに活躍の場を移しつつあった1956年(昭和31年)1月、県民の皆様に心配をおかけし、かつ「ガンバレ」の声援の声をいただいた大山稜線上での5日間の「ビバーク」のあと、神田利男・土光格次郎氏が生還した。この生還について、当時大山の遭難救助の大ベテランだった故桐山武氏は、1970年(昭和45年)12月27日付の山陽新聞紙上「あれがほんとうの山男だ。」とほめている。 V 日本アルプスに学び、鍛える 1952年夏合宿を北アルプス剣沢で行って以来、夏季は日本アルプスで固定合宿を行うようになった。その後固定合宿終了後縦走を数パーティに分かれて実施していた。 日本アルプスでの最初の春合宿は、1954年3月、八方尾根で行い、五竜岳・白馬岳をアタックしている。 1957年元旦、厳冬期富士登山に成功。 1959年1月、日本アルプスでの最初の厳冬期固定合宿遠見尾根で行い鹿島槍をアタック。これ以後年間を通じて固定合宿を大山のみとせず、日本全国の山を対象とするようになる。 1961年以降1980年頃までは部員の数も増え、合宿には常に20名以上が参加し、岩登りに、縦走に素晴らしい記録が残されている。1963年には、部員数37名と大世帯となり、山岳部の最盛期を迎える。 1987年頃までは10名前後の部員を確保できたが、その後は減少するばかりであり、計画の縮小を余儀なくされた。1996年以降には部員数5名となる事もあり各期の合宿はOBが参加してその活動を援助している。 部が充実してくると、より高度な、より困難なルートに挑戦するようになり、合宿中の事故が起きるようになり、その事故対策を真剣に取り組む必要性が生じた。OBの数も増えてきたのでOBと現役部員で組織する岡山大学山岳会があらゆる分野において現役を援助する体制をとるようにした。 W 国内における主な記録
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